酷兔英语

Japanese translation

Title 道歉
Summary 每个人都会犯错误,如果这些错误给别人造成了伤害,那么请别吝啬你的道歉,大胆地向对方说一句"对不起"。
Content 我们为什么不道歉?
中国有一句古话:"人非圣贤,孰能无过?"是说我们每一个人都免不了会犯错,并因此会伤害到别人。但其实下面还有一句更为重要的话——"过而能改,善莫大焉",意思是犯了错误而能改正,没有比这更好的了。我们很多人常常只记住了前面那句而忘记了后面这句,不愿意改正错误,更不愿意道歉。
那么,我们为什么不向受到伤害的人道歉呢?可能主要有三种情况。第一种情况,可能是觉得自己没有做错什么,有人被我们的言行所伤害完全是他们自己的问题。但是,如果我们"对的"言行伤害到了别人,那么这些言行在他们眼里就是"错的"。现实中没有绝对的"对"与"错"。所以,如果有人感到被我们所伤害了,不管我们是有心的还是无意的,也不管我们自己是觉得愧疚还是无辜,我们都应该道歉。
第二种情况是因为惭愧而不愿道歉。认为确实是自己做错了,可能我们对自己的所作所为都感到羞愧甚至不齿,以至于不想去面对它,希望时间来抚平一切,或者希望其中有一方能够淡忘。但如果不去面对,我们不但不会淡忘,而且会在羞愧中度过一生。
还有一种情况是认为道歉是一种失败或软弱的表现。这种想法本身就是一种软弱。为我们所犯下的错误道歉是一种勇气的象征,而逃避才是真正的软弱。
让我们都静静地想一想,还有什么人需要我们真诚地说一句:"对不起!"


   
Lesson Title:
謝罪する

Lesson Summary:
人は誰でも過ちを犯します。もしもその過ちで他人を傷つけてしまったなら、謝ることを躊躇しないで。思い切って「ごめんなさい」の一言を伝えましょう。

Lesson Content:
私たちはなぜ謝ることをしないのだろう。

中国には古い言葉に"人非圣贤,孰能无过?"というのがある。これは、「人は誰でも過ちを犯してしまうものであり、そのことで他人を傷つけることもある、と言っているのだが、実はそのうしろに更に大切な言葉が続く。"过而能改,善莫大焉"過ちを犯しても正すことが出来る、それに勝るものはない、と言う意味である。わたしたちの多くは往々にして前の句だけを心にとどめ、後ろの句は忘れてしまっている。過ちを正そうとしないばかりか、それ以上にしたくないのは謝罪することなのだ。

では、なぜ私たちは傷つけた相手に謝ることをしないのだろう?それには三種類の情況が考えられる。ひとつに、自分は何も過ちを犯していない、私たちの言行で傷ついてしまったとしても、それは相手の問題だと思っている場合。しかし、私たちが「正しい」と思っている言行で他人を傷つけたなら、その言行は相手にとっては「間違い」なのだ。世の中には絶対的な「正しさ」も「間違い」も存在しない。だからもし、私たちに傷つけられたと思っている人がいるなら、それが故意であろうが無かろうが、やましさに恥じ入ることがあろうが無かろうが、やはり相手に謝るべきである。

第二に、恥ずかしくて謝れない場合。確かに自分が間違ったとわかっていても、自分のしたことが恥ずかしくて触れたくない、そのことに向き合いたくないとまで思い、時が解決してくれるのを待つか、あるいは相手が次第に忘れてくれるのを願っている。しかし、ちゃんと向き合わなければ忘れられないばかりでなく、恥ずかしさの中で一生を過ごすことになる。

もう一つは、謝ることはある種の「失敗」や「軟弱さ」を表わすと思っている場合である。しかし、実はこういう考え方自体が「軟弱」なのだ。自分が犯した過ちを詫びるということは勇気があるという証で、そこから逃げる事こそ正真正銘の「軟弱」なのだ。

心を静めて良く考えてみよう。
誠意をこめて「ごめんなさい」と言うべき相手はいないだろうか?


※人非圣贤,孰能无过
(人はみな聖人や賢者というわけではないので、間違いを犯さないものはいない。)
※"过而能改,善莫大焉"
(過ちを犯したらすぐに改めること、これに勝ることは無い。)


: meijia   At 5/28/2011 4:24:00 AM            

   
Lesson Title:
謝罪する

Lesson Summary:
どんな人間でも違いを犯すことがあります。もしもそんな過ちで誰かを傷つけたなら、どうか謝罪の言葉を言うのを渋らずに、思いきって相手に一言「ごめんなさい」と言いましょう。

Lesson Content:
私たちはどうして謝らないのでしょう?
中国の古くからの言葉に「人非圣贤,孰能无过?(人は聖人でも賢人でもない、過ちを犯さないものはいない)」とあります。私たちは誰でも過ちを犯すことから逃れられないから、誰かを傷つけてしまうのです。ただ、実のところそれに続く言葉の方がもっと重要なのです。「过而能改,善莫大焉」これは、間違いを犯してそれを正すことができるなら、これより良いことはないという意味です。多くの人々がいつも前半のあの言葉を覚えていているのに、後半の言葉を忘れて、過ちを正そうとせず、謝罪もしようとしないのです。


では、私たちはなぜ傷つけた人に謝れないのでしょう?
主に三種類の状況が考えられます。第一の状況は自分がなにも間違いを犯していないと思っていて、私たちの言動に傷つく人がいても、それは完全に彼ら自身の問題だと思っている場合です。けれど、もし私たちの「正しい」言動が誰かを傷つけても、そのような言動は相手の目から見たら「間違い」なのです。現実には絶対的な「正しさ」も「間違い」もないのです。だから、私たちに傷つけられたと感じた人がいたら、故意であろうとなかろうと、また罪悪感があろうとなかろうと、私たちは謝るべきなのです。

第二の状況は恥ずかしくて謝りたくない場合です。確かに自分が間違いを犯したと思っていても、私たちは自分たちのしてきたあれこれに、恥ずかしさと軽蔑さえ感じているので、それに直面したくないのです。だから時間が一切を解決してくれるか、相手の記憶が次第に薄れていくことを望むのです。けれど、もしもそれに直面しなければ、記憶は薄れていかないばかりか、そのうえ恥ずかしさの中で一生を過ごすことになるのです。

さらにもう一つの状況は、謝罪するのが一種の失敗や軟弱さの表れとみなされる場合です。こういった考えこそが本当は一種の軟弱さなのです。間違いを犯したときに謝罪するのはある種の勇気の象徴であり、そこから逃げることこそ、弱さなのです。

静かにちょっと考えてみましょう。誰かが私たちの誠実な「ごめんなさい」という一言を必要としていることを。

: kemo@   At 5/28/2011 10:25:00 AM